幕間 『Wild life』

この小説は限定公開小説のサンプルです。続きは PIXIV FANBOXでお読みください。

仄かなカビの臭い、木材が変形してしまい機能を寸で保っている歪な形のテーブルと、肛門と尾骶骨を痛めつけるためにある直角の椅子。
立派な人間は一人も居座らないスラム街の錆びた空気の歓楽街にある数える程のバーの一つ、『アンデレ』は、時代に取り残された内装に似つかわしく、常連と化した湿気た浮浪者と、熱気をいやに帯びた暴漢と、痩せこけた割に勝気な身売りが大半を占めている。
正気の感じられないマスターと同じほど陰気なこの店が華やかになるのは、たかだかスラムに君臨した気になっている王の内の一人が、力を覚えた子供がするように扉を開けた日だ。

「退けよ。これは人間様に用意された席だぜ」

カウンターに座っていたアンモニア臭の漂う(よれた服に汗が染み付いているらしい)浮浪者を乱暴に押しのけ、肺と喉を震わせて笑う獣の王と臣下。今日はちょうどその日だった。
手荒く金を渡し酒瓶を掻っ攫い好き好きに愉快かつ下品に飲み、店内の女を物色し、歪んだテーブルを更に歪ませようと大袈裟に叩く。
アルコールを摂取するまでもなく酔い心地に浸る野獣たちは、我が家の気分で本能のままに動いていた。

この街では珍しくそこそこの健康体の女の腰を抱いた男は、臣下の中でもなかなか目を見張るほどの体つきだった。
露出された筋肉は背から受ける印象よりも重さを感じ、身体に残る痣は百戦錬磨の印象を与える。肩に携えるのがショットガンでなく長剣ならば、宛ら男は円卓の騎士である。

「おいおっさん、そこはスイートルームだ。お一人様のホテルで酒をオカズにするには料金不足だってそいつが言ってるぜ」

明かりの届きが不十分な隅の席で飲んでいた浮浪者に、臣下の背中越しに王は有難い忠告を仰った。
暴君がその浮浪者にだけは丁寧に教えてあげたのは、その男の身なりが(一般浮浪者と比べてだが)他よりも整っていたことに他ならない。
男は顔を覆う白髪頭を動かし、獣たちを無視して酒瓶からコップに酒を注ぎ、嗜むように飲んだ。完全に気づいていないふりをするつもりらしい。

ジョボボボッ

グラスに勢いよく注がれるそれは、一般浮浪者と同じ臭いのする液体だった。

「飲めよ」

クックと口元をわざとらしく歪ませて笑う雄の注いだ、黄金の塩分とアンモニアを含んだ水。
紛れもなく汚物を見る目をした女の向こうで、マスターが生気を取り戻していた。

「おいアンタ!そこの旦那はやめときな!」

身体に似つかわしくない大きな声で叫ぶマスターに獣の群れが気怠げに反応する。

瞬間、騒音が立つ。

目を離したたった一瞬で、白髪頭の浮浪者はテーブルから乗り出し、男の振り向きざまに頭に対して片脚を振り回し、もう一方の片脚で胸骨越しに心臓にスタンプを押した。
呼吸と意識を詰まらせた男の身体が重心を失うと斜め後ろに変則的に倒れ込みそうになる間に、体から浮いたショットガンを手にして肩紐をナイフで引き千切り、白髪頭の男の手中に盗まれた散弾銃が収まる。

白髪男が無言で軽く構えると、獣達は人間の真似事を忘れ立ち上がる。

「ひゃああああ!!」

小汚い客の一人が、女性の声帯を植えつけられたかのように甲高い悲鳴を上げた。
今度はなんだと店中の者達が彼の視線の先を見ると、黒い物体…否、気体がそこに見えた。
絵の具で塗り潰したかのように人工的な黒に、骨の如き白い鎧。その化け物の形は千差万別で、ここに現れた個体は、東洋の鬼のように、禍々しく醜悪。
ならず者の例えではなく、本物の獣。

「マジシャンだ!!!」

誰かが大声で叫んだのを合図に、暴漢たち以外静寂だった店内が慌ただしく音を立てる。
暴漢の数人がナイフを投げ、銃弾を放つが、それらの全てが虚空に飲まれては黒の彼方へと通り過ぎた。
マジシャンには、一般の兵器は通用しない。機械や災害も、この化け物には触れることすらできない。彼らのことを知らない人間でも、この巨体で建物をすり抜けた音のない来訪で十分にわかることだった。

「どうせ汚ねぇネズミを食っちまえば満足するだろうよ!それよりあのクソオヤジやっちまえ!」

「この世の終わりだ…」今から起こる大惨事を予感して、カウンターの隅で丸まったマスターが呟いた。
この状況下に置かれても、逃げるなどという選択肢は暴漢にはない。
正確には、マジシャンのみならば逃げることができた。しかし、今回はそれよりも前に喧嘩を売ってきたホームレスが目の前にいる。
力で上り詰めた連中が、やられたままで腰を抜かして踵を返すなどあってはならないことだ。ドブのように汚れていてもそれは誇りであり、手放してはならない。
この男を、自分たちの前でのさばらしてはいけない。
男を一刻も早く仕留めこの店から出て行く。いつも以上に士気を奮わせ、殺気のまま、白髪男目掛けて飛びかかった。


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